history 小杉歴史秘話

「小杉」の中心地はどこ?

小杉の中心は?と聞けば、多くの人が「武蔵小杉駅」
と答えるのではないでしょうか?
しかし、昭和の初め頃まで街の中心地といえば、
駅から北西の方向へおよそ600mほど行った、
中原街道と府中街道が交差する
「小杉十字路」と呼ばれる交差点付近でした。

2つの街道が交わるこの場所は人通りが絶えず、
大正2(1913)年から昭和7(1932)年まで
乗り合い馬車(後に乗り合い自動車)の停留所が設けられ、
馬車は溝口~川崎間を1日に5回(往復10回)運行していました。

定員は8人。車体は木製の黒塗りで、
屋根にはホロがかかっていて、
「ペッポー、ペッポー」と
ラッパを吹き鳴らしながら通って行ったそうです。
ここから川崎まではこの馬車で30~40分程度、
最も早い交通手段でした。

交通の発達とともに、飲食店も軒を連ねました。
当時の小杉十字路の地図をご覧ください。
乗り合い馬車の停留所の隣にあるのは、
馬車の利用客がよく訪れた洋食メニューが人気の「川野軒」で、
その向かいにあったのが「万年屋」というそば屋。
農家の人がよく利用したそうです。
府中街道を挟んで万年屋の向かいにあったのは
「稲毛屋」という宿屋、
同じ府中街道沿いにある「藤棚」とともに、
旅商人でにぎわったといいます。
残念ながら道路拡張工事などにより
今ではその姿を見ることはできませんが、
ロンドン・パリと称されるほど、
当時は時代の先端を行くハイカラな場所だったのです。

ロンドン・パリと称されるほどにぎわった小杉十字路。
バスは、川崎行き乗り合自動車。(昭和6年)

当時の小杉十字路の地図

にぎわったのは飲食店ばかりではありません。
娯楽施設もそうでした。
府中街道を川崎方面へ少し行った左側にあったのが、
川崎第1号となった風呂屋「鉄鉱泉」(鉄温泉)です。
明治39(1906)年に開業、
原液は東京の本所から仕入れていましたが、
健康に良いという評判から、埼玉や東京からも客が訪れ、
多い時には一日80人を越した時もあったといいます。
2階には休息する部屋もありました。

「鉄鉱泉」(鉄温泉)の全景(昭和46年)

浴場の内部(昭和47年)

また、大正11(1922)年には「川野軒」の隣に
「小杉館」と呼ばれる芝居小屋も出来ました。
後に「中原劇場」と改名され、
映画を上映したり様々な会合などに利用されたりしましたが、
やがて客足が遠のき、昭和40(1965)年に取り壊されたのです。

これほどまでににぎわった小杉十字路が
なぜすたれていったのか。
言うまでもなくそれは、
南武線・東横線の武蔵小杉駅ができたからにほかなりません。
一時南武線は小杉十字路近辺を通す計画があったのですが、
当時は蒸気機関車です。
煤煙や火の子が飛び散って
暮らしの環境を脅かされることを
懸念した住民の反対運動に会い、
追いやられた先が当時低地で何もなかった今の武蔵小杉駅。
鉄道が主流となるにつれてさびれていった小杉十字路ですが、
繁栄した当時に想いを馳せて逍遥すると、
にぎわいが聞こえてきそうな気がします。

田辺医院(右のクレーンの所)、安藤薬局(手前の更地)、
西村氷燃料店(右手前)などは道路拡張工事で取り壊された(昭和51年)

出典:羽田 猛 著「中原街道と武蔵小杉」